8月15日の終戦記念日を中心に、8月は戦争に関する行事や話題が多く、戦争で亡くなられた方々の御霊に対する慰霊と平和を祈る機会が多かった。日本は先の太平洋戦争の敗戦国ということもあり、多数の一般市民が犠牲となった大空襲や広島・長崎の原爆投下による甚大な被害についての報道が多いように感じた。
しかし、戦争では被害者となるばかりではなく、同時に加害者にもなる。ここが戦争の恐ろしいとことだ。戦争が始まる前までは普通に暮らしていた人間を残虐な鬼に変えてしまう。戦争がなければ人の命を奪うことは絶対になかったであろう人が殺人者になってしまうのだ。
さらに現代の戦争は、武器をもった軍人同士が戦うだけでなく、多くの一般市民もまきこまれてしまう。とりわけ女性、高齢者、子どもといった弱い立場の人びとが犠牲になってしまう。戦場では攻撃による被害だけでなく、略奪、性的暴力など悪業の限りが繰り返されるのだ。そうした行為は被害を受けた方はもちろんだが、加害者の人間性も破壊し、精神を著しく傷つけることにつながる。
先日のNHK番組で、戦争から帰ってきた父親が我が子に対して、激しい暴力を繰り返すという出来事が多数生じていたことが報じられていた。子どもは、なぜ父親からこのようなひどい暴力を受けるのか理由が分からないまま、その暴力に怯え、ただただ耐えるしかなかったという。そして長年父親を恨み続けてきた。
しかし、最近になって、その暴力の原因が戦争による心的外傷だった可能性があることが分かってきた。戦地での非人間的行為や激しいストレスによって精神が崩壊したのだ。恐ろしことに、暴力を受けた子どもはやがて成長し家庭をもち、今度は自分も子どもに暴力をふるうようになる。またその子どもも自分の子どもに暴力をふるう。そうした暴力の連鎖が何世代にもわたって続いているということも報じられていた。
仏教では、「因果の道理」ということが説かれる。物事が起きるには、必ずそれにふさわしい原因があるということだが、「善因善果・悪因悪果」と言った方がより分かりやすいかもしれない。これは、善いことをすれば善い報いを受け、悪いことをすれば悪い報いを受けるという意味だ。
この道理からすれば、戦争中に行った残虐な行為は悪因であり、その報いとしての悪果を受けることになる。国家をあげて悪業の限りを尽くしたわけであるから、その国と国民はその報いを、何世代にもわたって受けることになるだろう。たとえ戦争に勝利したとしても、決してその国と国民は幸福にはなれないのではないか。
日本も人ごとではない。東アジア周辺の現況は危うい限りで、軍備を拡張して対抗すべきだという主張が増してきている。しかし、軍備拡張だけでは、決して安心・安全をもたらすことはないだろう。相手の軍備拡張をエスカレートさせるだけだから。絶対に戦争を起こさないことはもちろんだが、絶対に戦争に巻き込まれないことも重要だ。
「やられてたまるか!」
「やられる前にやってしまえ!」
軍部もマスコミも国民もそうした威勢のよい主張に翻弄され、無謀な戦争に突き進んでいった歴史をふりかえり、同じ過ちを繰り返さないことを願いたい。大きな悪果を子孫に残さないためにも。
2025年8月30日
近藤雅則