盂蘭盆会式典で教会長のお説法を聞かせていただき、母に迷惑ばかりかけ、産んで育てていただいたことに感謝できない私だったなと自分をふりかえることができました。
母に迷惑ばかりかけてきて
よくよく思い返してみると、私は本当に母に迷惑ばかりかけてきました。問題を起こすたび、助けてくれたのはすべて母でした。中学生のとき、アルコールランプにマッチで火がつけられず、先生から「この子はおかしい」と言われてとても悲しかったとき、「久美子、このままお母さんと死んでしまおう」とまで言わせてしまったこと。兄との関係が悪く、兄との問題があったときに助けてくれたのも母でした。
私が男の子から物差しで叩かれているとところを見て、「うちの子のがいじめられています」と言って助けてくれたのも母でした。
また、「明日までに3万円用意して」と男子に言われ、私は父の財布から3万円を取りました。父に「お金が足りない」と言われて、黙って悲しい顔していたら、「どうしたの」と言われ、「明日3万円を用意して」と男子から言われたことを話すと、母はその男子の家に電話をし、「うちの子がお宅の〇〇くんから3万円のお金を用意しろと言われたらしいですが」と言って伝えてくれたのも母でした。
私は、子供の頃いじめられ、つらく死んでしまいたいくらい悲しい毎日を過ごしていました。そのようなとき、すべて母に助けていただきました。本当に迷惑ばかりかけていた私でした。
産んでくれたことに感謝できない私
私は、出来の良い兄といつも比べられていました。兄は中学の頃からからすべて出来ている兄でした。常にトップの成績でした。高校もトップのところから推薦入学をいただく兄でした。ところが私は反対で、成績はいつも「ビリ」。兄を知っている学校の先生が「お前、本当に志澤の妹か?」と言われました。
私が最も嫌だったのは、中学3年の頃母が卒業式の役員のトップで、母のことで職員室に呼ばれることが一番嫌でした。運動会のとき、母が特別な席の一番前に座って見ているのが運動の苦手な私にとって嫌でした。もう一つは家庭訪問で先生が家に来るとき、必ず最後に来て、父と母と食事をして帰ること。私は先生がいることで落ち着かなかった。
私は母が言った言葉で一番傷ついたことは、「お前は荒川で泣いていたのでかわいそうだから拾ってきた」と言われたこと。もう一つは出来の良い兄と比べられ、母は兄だけを可愛がり、私に対しては厳しいばかりでした。そのため、父が一番大好きな私でした。そういう観点もあり感謝できなかったのだと思います。
母はどんな気持だったのだろう
私は、母の二番目の姉である叔母が大好きでした。優しくて、私が泊まりに行くと、私の大好きな食べ物ばかりを出してくれました。私は、「叔母さんの家の子供だったらよかったのに」と母に常に言っていました。
というのも、母も父も忙しくて、よく「悪いけど二、三日泊まりに行ってきて」と言われると、喜んで行っていました。私が泊まることで、叔母の子供たちはいい思いではなかったと思います。やはり親戚とは言え、叔母の子たちは落ち着かなかったと思います。それに気づくことができない愚かな者でした。
あるとき、叔父から「いつも久美子が泊まりに来るが、たまには何か持って来いよ」と言われ、母は特上の松阪牛のお肉を持たせてくれました。叔父たちは、ニコニコ顔で迎えてくれました。私が泊まりに行くその都度、母はいろいろと持たせてくれました。
叔母の家は佛所護念会の信仰をしていた家庭でしたので、今思うと、「感謝」や「財施」のことを分からない母と私に教えて下さいました。私は子供の頃から佛所護念会に入会していました。母も入会していましたが、叔母のことを「あんな信仰してバカじゃないの。久美子も気違いになるからやめた方がいい」と言っていました。私は、実の姉に対してなんてひどいことを言うのだろうと、そういう観点から、私は母が好きになれない、母を愛せない娘になりました。
教会長の説法を聞いて
近藤教会長さんは、「産んで育てていただいたことに感謝できていますか?」と尋ねます。産んで育てていただいたことに感謝できない私は、母のたくさんの愛情、優しさ、まごころに気づくことができない愚か者でした。
でも、先日の25回目の『法華経セミナー』を学び、「認めて・ほめて・感謝する」「明るく・優しく・温かい人になる」と言うお説法が心に残こりました。そのお説法により、母に寂しい思いばかりかけ、悲しい思いばかりかけてきと気づかされ、自分を振り返ることができました。
紅充子クミコ