4月は、お釈迦さまの誕生を祝う「降誕会(花まつり)」の月です。
文京教会では、6日に「花まつり式典」を行いました。コロナ後、久しぶりに稚児総代による稚児讃嘆文の奏上が行われました。可愛いお稚児さんが、毎日練習した讃嘆文を一生懸命唱えてくれました。それだけで会場に大きな感動と喜びが沸き上がりました。
その後に、親からの手紙が読み上げられました。
我が子を慈しみ大事に育てている親の慈愛が優しく温かく述べられていて、これまた大きな感動をいただきました。
庭野日鑛会長は、本年4月号の『佼成』法話の中で「釈尊の誕生偈『天上天下唯我独尊』に示されるとおり、「人間に生まれたという尊さをしみじみかみしめ、ありがたさが感じられて・・・・」と述べておられます。
この「人間に生まれたという尊さをかみしめる」ことは難しい事かもしれません。
それは、なぜでしょうか?
私たちは「尊い」という言葉を聞くと、何か他人に比べて優れていること、価値が高いことだと受けとめてしまう傾向があるように思います。そのため、素直に尊く思えない人が多いのではないでしょうか。
特に能力や技能がなく、財産もなく、地位や名誉もなく、功績もなく、苦しい不遇の人生を歩んできたと感じている人にとっては、自分の存在は尊いものだと素直に思えないかもしれません。
しかし、花まつり式典の中で、我が子を心から慈しみ、我が子として生まれてきてくれたことに感謝と無上の幸せを感じている親の姿にふれた時、仏さまが私たち衆生を思う気持ちも同じなのだと感じました。
他人と比べて何がどう優れているか、価値がどう高いかではなく、仏さまのお慈悲は無条件なのです。何の条件もなく尊いと、仏さまは私たちを慈しんでくださっている。その仏さま(親)のこころを感じることができ、とてもありがたい「花まつり式典」でした。ありがとうございました。
合掌
令和7年4月8日
教会長 近藤雅則

